2011年11月21日月曜日

「都の西北」は“序破急”である

創立125周年を迎えた4年前の稲門祭では、校歌研究会によるシンポジウムが開かれたほか、会津八一記念館では大学史資料センターによる校歌関係の資料展が催され、相馬御風の揮毫や東儀鉄笛の自筆譜と並んで、イエール大学の学生歌「Old Yale」の収録された曲集が初めて一般公開された。
校歌の旋律や歌詞のモチーフなど、「都の西北」を生み出す際に参考にしたらしい箇所が見られるのだが、この学生歌自体、オリジナルの作品ではなく、1837年に英米で大ヒットしたジェームズ・ローダー作曲「The brave old oak」をもとにした替え歌である。
センターから依頼されて、「Old Yale」と「都の西北」の楽譜を部分ごとに対比させ、鉄笛がどのような箇所を下敷きにして、どういったところは使わなかったか、鉄笛のオリジナリティがどのように反映されているのか、色付きのパネルで解説させてもらった。
歌詞についての詳細な分析は別の機会とすることとして、鉄笛はオリジナルの曲をそのまま流用したわけではない。冒頭の「都の西北…」の音列と末尾の「早稲田、早稲田…」の上がり下がりを踏襲したのが目立つけれども、「我らが日頃の…」から「…行く手を見よや」までは、おそらく鉄笛が新たに書き下ろしたものであることは間違いないだろう。
今回取り上げたいテーマの出発点だが、原曲ではほぼ同じ長さの3つの曲想がABCと単純に続いているのに対し、早稲田大学校歌では、イントロの歌い出しAに比べて、真ん中のBの部分が2倍の長さに膨らんでいる一方、フィナーレのC(早稲田、早稲田…)にあたる部分を鉄笛はオリジナルのほぼ半分以下にまとめている。この曲全体の不均衡な構造はなぜだろうか?
作詞がそうなっていたから増築したのだろう、という単純なとらえ方をする向きもあるやも知れぬが、「都の西北」がつくられた詳細な流れについては実は謎が多い。巷間、相馬御風が一気呵成に1番から3番まで書き上げて、閲した坪内逍遙が激賞し、わずかに「早稲田、早稲田…」の7句を書き足したのみ…という話は、どうも後世になって尾ひれがついた美談らしいのである。
これは、曲の構造やつながり具合、歌詞の主題や言葉に含まれるモチーフの切れ目、さらに参考にしたであろう「Old Yale」の内容と照らし合わせてみると、詞ができて即、鉄笛のところに回されて旋律が付いた…といった、そんな単純な流れでは説明しきれない痕跡が校歌の各所に、実は見いだされるからである。
むしろ、「Old Yale」のフィナーレを鉄笛がピアノで弾いたのを耳にし、これを「早稲田、早稲田…」とあてはめ、活用してカレッヂ・ソングに仕立てることを誰かが思い付いて(おそらく坪内逍遙か島村抱月あたり)、その指示なり示唆なりに従って、楽譜の音符に合わせて御風が(七五調などと比べて、詩歌の字数としては多少イレギュラーな)八七調で書いてみて、鉄笛がそれに曲をあててみて、ああでもない、こうでもない…と何度か手直しを続けて今の形に仕上がったのではないか。
本稿で取り上げるのは、その「増改築」のうち、東儀鉄笛が曲の構造をつくる上で、どのような発想や創造性を盛り込んだのか、という考察である。
「早稲田、早稲田…」と7回も連呼する破天荒な終わり方が、この曲の一つの特徴であるが(史上最強のコマーシャル・ソングと呼んだら校友に叱られるか…)、その役割が楽曲上の締め括り、つまりフィナーレであることはどなたも納得されよう。
話は飛ぶが、実は、フィナーレの扱いはどの国どの地域の文化でも同じというわけではない。
ベートーヴェンの「英雄」「運命」「第九」あたりから、ブラームス、ブルックナー、マーラーと独墺の名だたる交響曲を聴けばすぐに分かるが、序奏にあたる第1楽章から気張らし、休憩、一休みといった「スケルツォ」「アダージョ」(この順番は入れ替わることも多い)が第2・第3楽章で続き、おしまいの第4(時に第5)楽章は、変奏やフーガを駆使し、長さや内容においてそれまでの集大成となる壮大な音楽になるのが普通である。
これは大詰めの派手な戦闘シーンが見どころのハリウッド映画の盛り上げ方などにも共通する美意識だろう。
一方、日本の伝統芸能一般を考えると、こと長さで測る限り、フィナーレの簡潔さ、短さに比べてイントロ(話の発端)の長いこと、長いこと。で、中間部というのがはっきりと分からないうちに、突如、ストーリーが急展開を迎えるものが多い。
能「紅葉狩」では、山中で美女が舞い踊る宴会に貴公子が迷い込んでいい気持ちになっている話が延々と続くが、狂言方演じる神様の使いが「こやつらは鬼の化身ぞ、退治せよ」と夢の中で告げられたら、地謡「不思議や今までありつる女…」と雰囲気は一変し、シテ「維茂(これもち)少しも騒ぎたまわず」と刀を抜いて、あっという間に終わってしまう。
能から歌舞伎に移した舞踊「京鹿子娘道成寺」なんかもそうで、白拍子の舞をじっくり見せるのが趣向だが、釣り鐘が落ちて中から蛇体の姿で出てきて花道にかかると荒武者の格好をした押し戻しに止められて幕。歌舞伎を知らない子供や外国人なら、ここからダイナミックな大立ち回りで盛り上がらないのかと思うんだろうが、あっけないぐらい素朴な終わり方が日本古来からの美意識らしい。
これは音楽に限らず、古典落語の出囃子・マクラから「オチ」に至るまでの展開でも容易に感じ取れるもので、新作は知らないが、本題のあとで後日談が延々と続くなんて落語はない。
こういった日本の伝統芸能特有の構造は、「序破急(じょはきゅう)」と呼ばれている。すなわち、発端から大した波乱もなくだらだらと話が進んで行く「序」のうちに、突如今までの流れを変えて話が急展開する要素が示される短いエピソードが「破」で、続いてさっさとフィナーレを迎えるのが「急」である。
漢詩なら「起承転結」というのがあるが、日本の場合、「転」がやたら短くて、「結」もわりとあっさり目で、「起」から「承」への変化というか区別がきわめて曖昧。しかも「転結」に比べてやたら前の方に重きが置かれて、しかもやたらに長い。
さて、早稲田大学校歌である。元になった曲がほぼ同じ長さのABCという3つの要素で組み立てられているのに比べて、「都の西北」の中間部はどうしてこんなに長いのだろうか。大正・昭和の早稲田の音楽活動に深く関わり、校歌が世に知られるのに功績大であった前坂重太郎は、「我らが日頃の…見よや」の部分をトリオと解釈していたが、長さで考えるだけでもマーチの中間部みたいな単純なABAのBではあるまい。前坂はあくまでも西洋音楽の知識で「都の西北」をとらえようとして見誤ったのだろう。
凡庸な並べ方といったら怒られるが、「都の西北」は、同じメロディーの繰り返しを2回続けている。つまり、

みやこのせいほくわせだのもりに……A
そびゆるいらかはわれらがぼこう……A’
われらがひごろのほうふをしるや……A”
しんしゅのせいしんがくのどくりつ……A”
このあと、少し音程が上がって
げんせをわすれぬくおんのりそう……A”’

なんだ、また同じ繰り返しか、と思うと、突然、これまで歌われた音階のうちで最も高い音が乱打されて!!

かがやくわれらがゆくてをみよや……B

「ええッ!?」と驚いたら、もう締め括りに入って

わせだわせだ......…………………………C

と大団円になる。
つまり、ここまでの説明でお分かりになると思うが、「都の西北」の構造は、A(序)─B(破)─C(急)という日本古来の典型的な美意識でとらえることが可能なのである。
もちろん、作曲者の東儀鉄笛がどこまで意図的にこうした形にまとめたのかは、何の資料も残っていないので推測の域を出ない。だが、東儀鉄笛は単に西洋音楽の模倣だけで作曲していたわけではない傍証は数多く知られている。
瀧廉太郎みたいにプロフィールがはっきりしていたらよかったのかもしれないが、東儀鉄笛は同一人物かと疑いたくなるほど多芸多才な人だった。
もともと明治維新になって帝に付き従って東京に移り住んだ雅楽師の家に生まれ、家業(篳篥)をついで宮内省式部職で研鑽を積んだが、ケンカして廃業。ふてくされて今の獨協大学の前身で学校経営に携わっていたのを大隈重信に見いだされて早稲田で働くようになる。音楽を捨てたわけじゃなくて、坪内逍遙の脚本に作曲したのが日本で2番目に上演されたオペラ「常闇(とこやみ)」という作品。その翌年に手がけたのが校歌の作曲。その後、演劇の道に進んで、俳優としても活躍した。
音楽について、雅楽に詳しかったのは当然として、西洋音楽にも通じピアノを弾きこなしたという。また、邦楽全般に造詣が深く、日本音楽史に関する論文を何度か雑誌で発表し、それがライフワークだった。残念なことにまだ55歳で急逝したために、その業績はほとんど知られずに終わってしまったが、鉄笛が日本の伝統音楽について深い知識と理解をもっていたことは確かである。
明治時代は音楽教育が緒に就いたばかりで、レコードや放送と言ったメディアもないから、一般の人は半音階どころかドレミファソラシドさえ正確に歌えなかったという。だから、当時の唱歌や軍歌は長調なら「ドレミ×ソラ×ド」のヨナ抜き音階と呼ばれる単純な5音階で作られるものが多かった(4番目のファと7番目のシがないから四七=ヨナ抜き)。
そんな時代に、外国の曲を参考にしたとはいえ、校歌をドレミファソラシドの1オクターブ・7音階でしっかり歌わせる曲に仕上げた鉄笛には優れた先見の明が感じられる。その一方、「序破急」といった日本の伝統的な要素をもさりげなく含んでいる独創性は、もっと評価されて良いのではないだろうか。
早稲田大学校歌の成立過程については、未解明の部分が多いけれども、一つの問題提起としてお目に留めて頂ければ幸いである。

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